小澤酒造場

記事一覧(62)

店主より

『口噛み酒』について ゆっくりご飯を噛んでいると、段々と甘みが感じられます。これは唾液中の糖化酵素がデキストリンを分解し糖に変化しているからです。この「糖」の香に誘われて空気中に浮遊している野生酵母が付着してアルコール発酵を起こすのです。つまり酒ができる訳で、これが「口噛み酒」です。 縄文時代以前の旧石器時代には既にデンプンを作り出す技術があったようですから話は古いですね。「口噛み酒」は東アジアを初め環太平洋地域全域にその痕跡があり広範囲に渡って、この方式の酒が造られていたのであります。原料としては東アジアは米類が多く、台湾や沖縄は栗🌰稗、時にトウモロコシ等が使われたとか?中南米はトウモロコシ🌽、チリは小麦といった具合です。作り方は噛んで唾液共々壷🏺の中に吐出せば良いだけのことですから、ごく簡単で、地域によって澱粉を噛む人が男、女、処女、美女、老女などと分別されていたとか…8世紀ころの大隅国風土記とか10世紀中国南部の閩書(ビンショ)等に記されているそうです。ただ噛んで唾液ごと壷の中に入れる訳ですが、「歯は疲れ口は荒れ顎は痛む」等々、その作業は大変な苦を伴なってのことであった様で常々勝手に作るものではなかったようです。続きは次回に…  桑乃都  店主

店主より

店主より

縄文時代の〈酒のふるさと〉井戸尻遺跡については以前少々触れたことがありますが、1953(昭和28)年8月 長野県諏訪郡富士見町の井戸尻遺跡一帯に縄文中期の竪穴式住居跡が当時生活していた状態のまま発掘出土され中にいろいろな土器がほぼ原形で発見されました。その中の1つの壷の底に山葡萄の種が沢山残っており葡萄🍇酒を造った壷であることが確認された訳です。更に時が進み、木の実とか芋🍠類の澱粉を発見!当時酒にしたのではないか?そこで、5000年〜3000年前の様子を振り返ってみましょう!どんな植物からどの様な澱粉をどの様にして採ったのでしょうか?大別すると…1 クルミ、トチ、ドングリなどの実→堅果類2 かたくり、葛、山芋→根茎類となります。皆さま小学生のころじゃがいもをすりおろして水に晒し澱粉を採る理科の実験をされたかと思いますが全くそれと同じ方法です。堅果類はお湯につけてふやかし石器で叩いて外穀をとり中実を砕いてすりつぶし水に濾す根茎類はすりつぶして水で濾すといった形で、まず、澱粉をとることが第1の目的でありました。当然この澱粉が人間の食糧になった訳ですが、当然、酒にも使ったであろうことが推察されるのであります。皆さま、緊急事態宣言が解除にはなったものの、第2波の可能性もあり、落ち着かない日々をお過ごしのことと存じます。今回の夏特別企画、雄町米で造った酒の頒布会、ご購入いただきました方ありがとうございましたm(_ _)mお味はいかがでしたでしょうか?ご感想ありましたら是非お聞かせください〜また、ご注文されていらっしゃらない方でご購入ご希望の方、まだ間に合います!お電話かFAXでお問い合わせください〜ではでは、マスクして3密避けて前向きに🎶イェーイ👍桑乃都 ㈲小澤酒造場

店主より

前号までに少々触れておりますが水稲米が日本に入ってきた経緯をもう少し詳しく説明しておきましょう。中国の広大な土地で発達した農耕文化が日本列島へ伝播されたのにはいくつかの移入ルートがあるようですが主たる学説として江南から南朝鮮を通り日本へ…もう一つは直接日本(北九州地域)へ渡来したと言われております。江南の浙江省 江蘇、安徽、両省の南部あたりまでの広大な地域を指して南支と言っておりますが、ここにはアジア系の非シナ稲作民族が先住していましたが呉越の台頭から楚が勢力を得て戦国時代に入り華北からの圧迫を受け始めました。当時華北は江南地域を「蛮夷ノ地」と見下げていましたが「江南ノ地広ク、或ハ火耕水耨ス 民ハ魚稲ヲ食イ、漁猟山伐ヲ業トス」と「漢書」に書かれているように華北に比べたら南支は大変豊かであったのです。やがて漢国が強力な武力を持って国家統一を目指し江南地域に進出し、その勢力に耐えきれずに国外退去となり九州にも渡来したのでありましょう。このことが日本に弥生稲作農耕文化を芽生えさせた切っ掛けであります。当時我が国は縄文晩期、食料としては木の実や根茎類が常食であり、これを原料として「口かみ酒」が造られていた時代です。この様にジャポニカ米が移入され、やがて水稲米での日本酒が醸造されるのですが、その前に根茎類や雑穀による酒=アルコール飲料を説明しておきたいと思います。次回に!桑乃都 (有)小澤酒造場 店主